飯島監督は、円谷プロでウルトラマンやウルトラセブンなどを世に送り出したほか、一大ブームを巻き起こした「金曜日の妻たちへ」の演出・プロデュースを手がけている。
■考えてもいなかった時代が現実になってしまった
−飯島監督が住んでいる町、成瀬台に対する思いとは
映画「ホームカミング」の主人公同様、自分も会社員だったころは、ただ寝るためだけに町に帰っていた。でも、今は成瀬台は自分の町。主人公の思いとそこはシンクロしています。劇中に、「子どもたちが巣立って、町中いちどきに年寄りになるなんて、当時考えてもいなかった時代が今、現実になってしまった。でも、何か見えたような気がするんですよ。なにか始まったような」というセリフがあるんだけど、自分でも脚本を書いていてグッときました。あと、ほぼ1カ月、撮影で地元住民のエキストラと一緒に過ごしてきたけれど、皆演技がうまくなってる(笑)。撮影がだんだん楽しみになってきているからだと思うけど、うれしいですよね。
■町と人間が融合していく様を「抑えた喜劇」で作りたかった
−映画化のきっかけを教えて下さい
もともとは全く違う作品で考えていて、キングレコードの大月プロデューサーから依頼があった特撮もので準備して、脚本も仕上げていた。でも、いろいろなことでNGになってしまい、大月さんから「好きなものを」と言われたので、リアルなもので喜劇をやりたいなと思ったのがきっかけです。そこから、あらすじを書いて大月さんに渡したら、面白いと言ってくれたので、本格的に始動しました。多分、大月さんが見ていた「金曜日の妻たちへ」や「泣いてたまるか」みたいなテイストに、主役が高田純次さんに決まったことで、さらに喜劇要素がプラスされたと思います。そこに、警察花子を入れ込んで、オジサンたちが無邪気になっていくという風にしました。あと、ずっと自分の作品で「町と人」をテーマにしてきて、今回はそのひとつの区切りだとも思ってます。「町への思い」というか。町と人間がうまく融合していく様子を、ドタバタでなく抑えた喜劇として作りたかったんです。
■「金妻」世代へのメッセージ
−「金曜日の妻たちへ」から20年以上たって、まさにあの主人公たちが今回の映画「ホームカミング」の主人公たちと同じ年代となります
自分が成瀬台に家をもって、町での交流の中で知ったことだけど当時、「金妻」のファンだった近所の女性たち(60歳代)が、私が製作者だと知って、続編を撮って欲しいとリクエストがあったんです。あのドラマにあこがれてこの辺りに住んでいる人も多い。彼女たちは、たぶん不倫とか恋愛を扱ってほしいという意味で言っていたと思うし、もちろん愛や恋もいいけど、でもあなたたちの世代が直面しているのはこの映画のテーマの方じゃないのと。せっかく素敵な家を買っても、子どものために用意していた2世帯住居の部屋に子どもがいなくて、定年後、夫婦2人きりの生活。実際に劇中でも登場するシーンなんだけど。あと、今回のキャスティングではわざわざ青春スターとヒーローを集めてみたんですよ。
■会社を辞めるまで近所の人とほとんど口を聞いたことがなかった
−監督が引っ越してきた昭和40年ごろのニュータウンは
その頃はまだブームの前で、カミサンのお母さんを連れて駅からタクシーに乗ったら、カミサンは甲府出身なんだけど、こんな田舎に飛ばされたのか?左遷されたのか?と心配するくらい周りに何もなかった。ちょうど、玉川学園前駅から歩くと15~17分ぐらいなんだけど、その途中にはタヌキもヘビもいた。その後、たくさんの家が建ち始めて「金妻」のようなニュータウンブームがやってきた。当時は都会で働いて、深夜に帰って、家で5時間くらい寝てすぐ出勤。本当に「ねぐら」みたいだった。だから、映画の主人公のように、会社を辞めるまで近所の人と1~2回しか口を聞いたことがなかったんです。
■会社を辞めたら、町に出ろ。家にこもるな
−これから定年してまさに「ホームカミング」する人々へのメッセージを
今までの肩書きをはずして、まずは町に飛び込め、と。そして町に溶け込んでほしい。意外と、外せない人が多いんです。そんなものは全く関係なくて、肩書きが外れると、部長も課長も役員もないので、みんなで飲んでもワリカンで飲むし。とにかく、定年したら家にこもるなと。会社を辞めたら、町に出ろ。家にこもるな。「書を捨て町に出よ」じゃないけど(笑)。実際に、某有名企業の役職付だった人が、今日の祭りの撮影シーンでも、エキストラとして焼きそばを焼いていました。そうやって肩書きを外してみると、意外と楽になるし、逆に家にこもっているとうつになる。会社人間は会社にしか友達がいないからね。家にこもらず、まずは、ぽんと町に出てみることをお勧めします。
【飯島敏宏監督プロフィール】
1932年、東京都生まれ。
1957年、ラジオ東京(現TBS)に入社。演出部に所属し、テレビドラマで助監督を務めたのち、映画部へ異動。1962年、国際放映に出向し、渥美清版「泣いてたまるか」などを手掛ける。
1966年、円谷英二率いる円谷特技プロダクションに出向、「ウルトラQ」などの特撮ドラマを演出、のちに円谷プロの代表作となる「ウルトラマン」(1966年)や「ウルトラセブン」(1967年)などのシリーズや「怪奇大作戦」(1968年)などを世に送り出した。
1970年、木下恵介プロダクション(現ドリマックス・テレビジョン)に出向しのちに移籍。社長・会長を兼任する傍ら、演出家のみならずプロデューサーとしてもテレビドラマに携わるようになる。木下プロでは山田太一の初期の代表作「それぞれの秋」など「木下恵介人間の歌シリーズ」(1970~1977年)や、一大ブームを巻き起こした「金曜日の妻たちへ」(1983年)の演出・プロデュースも手がけ、「ドラマの TBS」の一翼を担った。 2007年、ドリマックス・テレビジョンの相談役を退任し、退社。フリーとなる。
脚本家としてのペンネームは千束北男(せんぞく きたお)。
その他のTVの代表作として、「帰ってきたウルトラマン」(1971年、脚本)、「早春物語」(1976年、演出)、「思えば遠くへ来たもんだ」(1981年、演出)、「毎度おさわがせします」(1985年、企画)、「金曜日には花を買って」(1986年、演出・プロデュース)、「男たちによろしく」(1987年、プロデューサー)、「それでも家を買いました」(1991年、企画・演出)、「適齢期」(1994年、企画・演出) 、「理想の生活」(2005年、プロデューサー) など。映画は、「二十四の瞳」(1987年、プロデューサー)、「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」(2001年、監督・脚本) などを手掛けている。