旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。
そもそも、昭和30~40年代(1955~1964年ころ)の日本の街並みはどんなだったかというと……
駅前の商店街には、木製のガラスの引き戸や土間がある店舗が多くありました。今ではあまり見かけない個人経営の自転車置き場や貸自転車屋、包丁や鋸りを専門に研ぐ店が、八百屋や果物屋、魚屋、肉屋などに混じって並んでいました。菓子屋には「量り売り」の文化が残っていました。
当時の大野は駅前の商店街まで行かないと日本人が入れる飲食店はなかった。それ以外の蕎麦屋や寿司屋、レストランやバーなどの飲み屋は米兵のたまり場になっていました。
大通り以外は未舗装路も多く、電信柱はコールタール塗りの木製。街路灯はアルミ製の傘に裸電球で、夕方になると町内会の当番が紐を引っ張って点灯していました。駅に続くバス通りには信号機のある交差点はひとつのみ。ほとんどの交差点や路地には信号機などありません。そもそも、自家用車を持っている日本人は医者か実業家の社長ぐらいと相場が決まっており、道を走っている車輛はほとんどが米軍関係でした。
当時のアメリカ車はとても大きくてですね。日本でもヒットした映画『ウエスト・サイド物語』や『アメリカン・グラフティ』に出てくるアレ! です。映画のスクリーンから抜け出したような「実車」が毎日、目の前を走っているわけです。
わが家の近所には米陸軍基地、米軍病院、米軍ハウスの施設があったので、日常的にオリーブグリーンのボディーに白い星印の付いたジープやトラック、救急車、消防車などの軍用車が走っているわけです。そのデザインのいいこと……! 特に消防車と救急車が恰好よかった。そのころの日本の消防車ときたらボンネットトラックで、荷台に木製の手動ポンプが、まるで神輿の家具のように鎮座している。その差、歴然。
乗用車も、当時国産車といえばマツダの小型三輪トラック(オート三輪)程度しかないわけで……。米軍関係者は海の向こうから持ってきたのでしょう。フォードやシボレー、ダッジなどの、赤やライムグリーン、レモンイエローなどのビビッドなボディーカラーにジェット機のような羽がついたデザインのド派手なオープンカー。黒縁サングラスを掛け、隣にはネッカチーフやスカーフを風に靡かせた女性を乗せて重低音のV8サウンドを響かせて颯爽と走る姿は、本当にカッコよかった。当時の流行語、「カッチョイイ~」という台詞どおりで、子ども心にもまるでほかの星から来た別次元の生物にさえ思えたものです。