旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。
前回の東京オリンピック前後の1960年代、相模原一帯はいまだバス通りでさえ未舗装路で、マイカーやエアコンはおろかテレビや固定電話すらない家もある時代(東京オリンピックをキッカケにテレビは爆発的に普及した)、路向こうのアメリカには電話、テレビはもちろん、エアコンやマイカーは普通であり、一家に数台のクルマを所有していても珍しくはありませんでした。
父の仕事柄、基地内のファミリーとの交流もあり、クリスマスや何かの記念日にはホームパーティーに呼ばれることもしばしばでしたが、その度に目新しいモノに遭遇したものです。
基地の子どもが食べていたモノや玩具にも新しい発見だらけでした・・・
当時のトーストは、食パンを縦に差込み焼きあがるとチーンといいながらパンが飛び出す家電製品で焼き、バターかマーガリン、ジャムやピーナッツクリームをつけるのが定番でしたが、本格的なピザの存在すら知らない時代に食べた「ピザトースト」はチーズトーストという以外、他に形容しがたいモノでした・・・・・ おやつの時間には自家製の甘くないドーナッツ(当時ドーナッツとは砂糖をまぶした甘いのが定番でした)もさることながら、味はホットケーキに似ているが、四角くて蜂蜜に似た甘いカラメルソース(メープルシロップは当時あまり記憶がないですね)やホイップクリームタップリの「ワッフル」、クッキーみたいな固いパンみたいな「スコーン」なるモノや「フルーツパイ」も初体験でした。
日本の家庭ではおやつにホットケーキぐらいは作りましたが、パンやビスケット、クッキーやケーキは買うものであり、家庭で「焼く」というのは一般的でなかったように思います。 ともかくパンでもパイでもケーキでも・・・ なんでもホームメイドで・・・というスタイルが私には凄く新鮮に映ったものです。
基地内の住宅エリアを歩いていると芝生続きの庭に水を撒く姿を目にするのですが、その広々とした芝生の庭には必ずといっていいほどブランコと赤いガーデンワゴン「ラジオフライヤー」があったのが印象的でした。 ある家ではガーデニングの備品が乗っていたり、小さい子どもたちはワゴン乗って遊んでいる姿が・・・ まるでアメリカの家庭にはクルマ同様に一家に一台、赤いスチール製のワゴンが配られているのではないかと思うほどでした。 一歩玄関に入ると自転車やゴルフバッグや傘立てと一緒に赤いワゴンが視界に飛び込んで来る、といった具合ですが・・・
日本の家には玄関という区切られた空間があり、そこで靴を脱ぎ上がるのが一般的ですが、基地内の家は玄関ドアを開けるといきなりリビングルームやキッチンだったりするわけで、当然靴も脱がないのでそのまま部屋に・・・・ そこにはで~んと大きなソファが鎮座していて、だだっ広い明るい部屋の白壁には、色々なアニバーサリーの額などが飾られていました。 部屋の中央にはマントルピース(暖炉)が在る家も多く、窓際にはボイラーによるスチーム式セントラルヒーティングのラジエターが印象的でした。
子ども部屋を覗くと、部屋一面にモデルガンやエアガンなどの遊び道具が・・・
その中でも目を引いたのがラジコンの玩具類でした。 日本でもラジコンは存在していましたが、当時はプラモデルのリモコンやラジコン以外、本格的なラジコンはいまだ高級品であり一部の大人のマニアが遊ぶもので、とても子どもの手の届く代物ではありませんでした。 それと同時に印象が残っているのは、はじめて見た本格的「スロット・レーシングカー」(溝の切ったレール状のコースをモーターミニカーが走るというモノ)日本でも東京オリンピックの後、1970年頃にかけて本格的なブームになるのですが、それ以前は2レーン程の小さな玩具のスロットカーしかなく、後のブームで4レーン以上もあるような 巨大な本格的なコースが、スロットレーシングサーキットとして専門店にのみ存在するわけですが、それより遥か以前に本格的なスロットコースが、それも4レーンもあるような本格的なのが一家庭に存在している事に衝撃を受けました。
現在では米国との格差を感じることなどありませんが、当時は子ども心にも物質的に「豊か」なアメリカを直に肌で感じ、素直に羨ましいなぁ~と思ったものです。 続く・・・。