『武相決戦』か、『相武決戦』か。
FC町田ゼルビアは町田市、SC相模原は相模原市と、近隣をホームタウンに構えるチーム同士の対戦は、それぞれの立場で“ダービー”の呼称が異なっていた。その名称を今季の対戦成績次第で来季の町田vs相模原の呼称を決定する初の試みが実施されることになった。今季の3試合で町田が勝ち点で上回れば、『武相決戦』、相模原が上回れば、『相武決戦』と呼ぶーー。その第1ラウンドが4月19日に相模原ギオンスタジアムで行われ、ホームの相模原が2-1で町田を振り切った。
試合の入り方に難を抱える町田は、開始早々の3分に最初のセットプレーのピンチで失点。相模原・曽我部慶太のクロスボールに巧みな位置取りから井上平に頭で決められると、39分には町田DF深津康太によるクリアミスから、最後は元日本代表FW高原直泰にクリーンシュートで追加点を奪われてしまった。
0-2で迎えた後半は、ハーフタイムの選手交代で活性化を図った町田が48分に久木野聡が追撃弾を奪取。しかし、その後の反撃も実らず、試合は相模原が勝ち切っている。
「昨季は一度も勝てなかった町田に、今季の第1戦で勝てたことはうれしい。サポーターの方々にも喜んでもらって、チームの自信になったと思う」。勝利監督となった相模原・辛島啓珠監督は、試合後の会見で勝利の喜びをそう語っている。
この結果、両者の公式戦における通算対戦成績は、町田の4勝2敗となった。来季のダービーの呼称に直結する今季の対戦では、まず相模原がアドバンテージを握った。
通算対戦成績だけを見れば、町田が一歩リードしていることに疑いの余地はないが、結果のインパクトという意味では少々趣きが異なる。相模原にとっては、昨季の3戦全敗という屈辱の歴史が刻まれており、町田にとってはJFL時代に二度目の対戦となった2013年JFL最終節のゲームが負の記憶として残っている。
1年でのJ2復帰の条件だったJFL優勝を逃し、3位で最終節を迎えた町田はせめてものプライド保持のために、3位確保を狙った最終戦で相模原と対戦。公式戦における初対決となった第2節では4-1の大勝を飾っていたものの、最終節を迎えたときにはすっかりお互いの立場は逆転しており、内容も結果も相模原の完勝だった。
「相模原はさすがに1年間継続してきただけあって、チームとして成熟していて選手個々の役割もハッキリしていた。すっかり大人のチームになっている。お互いに近隣のライバルチームなのでこれからも切磋琢磨していきたい」。当時の町田の指揮官・楠瀬直木監督代行は、素直に力の差を認める発言を残していた。この敗戦で相模原は町田を順位で逆転し、初のJFL参戦となったシーズンを3位でフィニッシュ。シーズン途中に秋田豊監督の途中解任で揺れた町田は、結局4位でシーズンを終えた。
2013シーズンに町田に復帰して以降、自身もゴールを決めるなど「相模原とはなぜか相性が良い」と話していた深津は、相模原戦を前に「ダービーだし、絶対に負けられない」と並々ならぬ決意をみなぎらせていた。今季の第1ラウンドは、彼のワンプレーが勝敗に直結したことはなんとも皮肉な結果だが、近隣にライバルが存在している価値は計り知れない。それは日本と韓国の隣国同士による切磋琢磨が、日本サッカーの進歩に多大なる貢献を果たしてきたという歴史が証明している。
「相武決戦の盛り上がりを感じた」(相模原・井上平)と、相模原vs町田戦特有の熱気を感じる選手がいた一方で、「さいたまダービーという大きな規模のダービーに比べればまだまだ」(町田・宮崎泰右)と語る選手もいるなど、公式戦でわずか6度のダービーの歴史と熱量は、まだまだ成長の余地がある。もちろん、J3優勝でのJ2復帰を至上命令に掲げる町田にとって、来季以降、公式戦の相模原戦はないものとして捉えているのが本音だろう。しかし、第1ラウンドで敗戦を喫し、第6節終了時点での順位は相模原が2位、町田が5位と相模原に後塵を拝しているという事実は重い。町田もこのまま黙っているはずがないだろう。
武相エリアのサッカー文化のさらなる発展と個々のクラブチームがレベルアップを図るために、町田と相模原がしのぎを削るライバル関係。近隣同士の幸福な結び付きは、町田と相模原の発展に寄与するに違いない。
【著者プロフィール】
郡司聡(ぐんじ さとし)
編集者・ライター。サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の編集部勤務を経て、現在はフリーの編集者・ライターとして、サッカー中心の取材活動を行う。ゼルビアは2010年の天皇杯・東京V戦ごろから取材を始め、J2に昇格した2012年より本格的に取材活動を始めた。この3月、ゼルビアを中心としたWebマガジン『町田日和』(http://www.targma.jp/machida/)を立ち上げた。