旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。
当時のわが家は市営住宅。当初は駐留米軍向けに造られたものが、のちに市に払い下げられたらしい。平屋の一戸建てで、米軍住宅の端に隣接する形で約40棟が軒を連ねていました。隣の家との間に塀はなく、植樹や垣根で区切られており、母屋の割に敷地は広く、平らな庭には果樹が植えられ季節ごとに実りを謳歌していました。
わが家にも桃、梨、林檎、イチジク、葡萄、茱萸、アケビ、みかん、梅などの樹があって、同居していた明治生まれの祖母が手入れをしていました。虫がつきやすい桃や梨に紙袋を被せる作業を妹と手伝ったりしたものです。そのおかげで、ハウス栽培が当たり前の現在とは異なり、自然の実りによる季節感が若干身についたのかもしれません。
このころの一般家庭では戦後の物資不足の苦い経験からなのか、農家でなくとも庭に果樹を植えている家が多かったように思います。
果樹のほか、鳩や鶏を飼う家も多かったように記憶しています。
隣家でも伝書鳩や鶏、チャボ(地鶏の一種)を飼っていました。一般の鶏に比べ、チャボはなかなか気が強く凶暴で、よく追いかけられたものです。棒切れで突っついたり小石を放ったりしてチョッカイを出すと、鶏冠を立てて声を荒げて威嚇し追いかけてくるのです。子どもたちにはそれらがとてつもなくスリリングで楽しかった。度を越すと、逃げ際に尻を嘴で突かれたりしました。
また、多くの家で金魚や鯉、亀、鳥(インコ、文鳥、十姉妹)、リスなどを飼っていました。
わが家の庭の池でも金魚を飼っていました。近所の猫にしょっちゅう狙われていて、金網などで防御しているにもかかわらず頻繁に彼らネコ科の猛獣の子孫たちのエサになっていました。
立派な錦鯉を大量に飼っている家もよく見かけました。このころは鯉も流行っていたのでしょうか――?
犬を飼っている家も案外多かった。郊外の一軒家だからか、ペットとしてではなく、あくまでも番犬としての飼い犬であり、そのほとんどが秋田犬や紀州犬、甲斐犬などを先祖に持つと思われるいわゆる日本犬の雑種です。サモエドをルーツに持つスピッツもよく飼われていました。
当時は、ほぽ例外なく外飼いで、庭先や玄関先に置かれた木製の犬小屋に鎖で繋がれ、そばに水の入ったバケツが置かれて飼育されているというスタイル一般的でした。外飼いであったことと現在のようにドックフードは存在せず、エサは人間の食事の残飯(ご飯に味噌汁を掛けたようなもの)が一般的であったためか、3~5年と短命だったように思います。
また、当時の犬はよく吠えました。子どものころから動物が大好きで、よく犬と遊んだものですが、中には強烈に凶暴な犬も多く、その家の前を通るたびに食い殺されるのではないかと思うほどに吠える犬も結構いたものです。
一方で、「路向うのアメリカ」では1950年代に人気だったドラマの影響からかシェパードやコリーが多く飼われていました(後に日本でもコリーやシェパードは人気になりますが……)。
このころの犬が主役の人気ドラマは、オッサンならだれでも知ってる二大巨塔、「名犬リンチンチン」と「名犬ラッシー」。
「名犬リンチンチン」は19世紀を舞台にしたアパッチ砦に駐屯する騎兵隊のマスコットのラスティー少年とその飼い犬のリンチンチンが主役のドラマ。物心ついたころから食い入るように観ていて、聡明で勇猛なリンチンチンに強い憧れを抱いたものです。「名犬ラッシー」のテレビドラマ版は当時の豊かなアメリカの農場を背景にしたホームドラマで、こちらも大人気でした。ちなみに劇場版の『ラッシー 家路』(原題:Lassie Come-Home)は1943年MGM配給でエリザベス・テイラーのデビュー作。
くしくも、1950~60年代のアメリカは当時の日本と比べると圧倒的に物質的に豊かな国であり、また国力も突出して強かった時代。古き良きアメリカンドリームも健在で、アメリカ文化とが面白い時代でもありました。目の前に広がる1950~60年代のアメリカ文化に否応がなしに影響を受けた幼少期。子どもながらにも生活環境に随分と差があるとなぁと感じたものでした。
・・・続く