特集

路向うのアメリカ
#5 物質大国&消費大国 アメリカ

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旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。

#5 物質大国&消費大国 アメリカ

1964年の東京オリンピックを境に「いざなぎ景気(1965~70年)」の勢いに押されるように街並みは大変革時代に突入。東海道新幹線や首都高速道路の開通など、目覚ましく変況していきます。「路向うのアメリカ」とのギャップは多少縮まったものの、それでも物量にモノを云わせる「物質大国&消費大国アメリカ」にまだまだ届かない時代……。

当時、わが家はいまだ薪風呂(後に釜戸だけはLPガスのバーナーになりましたが)で、仕事の合間に父親が小まめに薪割りをしていたのを覚えています。
土間の炊事場もいまだ残っており、すでに使われていない釜戸があったりもしました。

冷蔵庫は後に電気冷蔵庫がやってくるまでは「氷冷式冷蔵庫」というタイプ。これは木製の茶箪笥のようなデザインで、上と下に金庫のような扉が付いており、内装はブリキ製。氷屋さんが毎日オート三輪で配達してくれる氷塊を上の庫内に入れて下の庫内を冷やす方式。モチロン非電気式で、溶けた水が下の受け皿にタップリと溜まるが電気代は掛からないシロモノ。そんなスペックだから当然氷はつくれない。しかも、秋、冬にはよっぽどの食材(刺身など)を保存しない限りは氷は入れないから、単なる食糧保管庫に変身するわけです。
一方、夏の猛暑対策は、①窓全開、②団扇、③扇風機、④水浴び、⑤スイカ(たまにかき氷)、⑥風鈴、といった具合です。

私の父は、私が生まれてすぐの1950年代後半から60年代前半にかけて、仕事でしばらく渡米していました。アメリカ文化を目の当たりにして、相当なカルチャーショックを受けたとよく語っていました。当時でさえも文化や生活のギャップを感じたのだから、1841 (天保12)年にアメリカを肉眼で見たジョン万次郎の衝撃とはいかほどのものだったか……。

いまだ外貨持ち出し制限があった1ドル360円時代にあっても、父が見てきた海の向こうの超大国はとにかく広大。街には立派なビル群が立ち並び、夜は色とりどりのネオンサインが綺麗に輝き、大きなクルマが川の流れの如くハイウェイを走っていて、ホテルに行くとルームクーラーが付いていて、バーでは専属のバンドがジャズの生演奏をしており、レストランに入るとサラダでもパンでもフルーツでも酒でもいろいろなものがタップリあって好きなものを好きなだけ食べられる……こうした文化に驚いたそうです。

当時、日本は戦後の食糧配給制度の名残から外食文化はいまだ回復しておらず、「外食券」なるものを持って外食券食堂に行かない限り、自由に外食できなかった。それが、海の向こうでは街中どこに行っても、エスカレーターやエレベーター、電話ボックスが溢れており、「ドライブスルー」ではクルマに乗ったまま公衆電話が掛けられたり、ハンバーグやホットドッグが買えたり、映画が観られたり、買い物ができたりする。また、どこのカフェやドライブインに行ってもジュークボックスなるモノが置いてあり、お金を入れると好きな時に好きな音楽を聴ける。
また、廊下に球っころを転がしてキャーキャーと大騒ぎするボーリングという遊びを初めて見たときは、何が面白いのかまったく理解できなかったそうです。しかし、一度やってみたら面白くてけっこう嵌ってしまい、一時期、週末になるとボーリング場に出かけていたらしいです。

そんなアメリカ生活で最も衝撃的だったのは「スーパーマーケット」の存在。広大な店舗に食料品、衣料品、日用品、書籍、フードコートなどなんでも大量に揃っている、その圧倒的な物量と人々の消費量と、その合理的なシステムに感銘を受けたといいます。帰国後、「スーパーマーケットってのは凄い! 便利だ! これはいずれ日本にもできる!」と語っていましたが、実際には「紀伊国屋」さんが戦前より開業していたようです。

当時、酒が入った時の父の口癖は……

「今、日本はアメリカに10年遅れているが、いずれアメリカに追いつき、アメリカのようになる日が必ずくる。きっとくる。だからこれからの時代は日本人も英語が喋れなきゃダメだ」。

当時の日本の流行語に「3種の神器」がありました。これは家庭の近代生活兵器ともいえる、テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の普及を象徴した言葉であり、いざなぎ景気のもたらしたマスプロ的な近代化生活と消費文化の幕開けでもありました。

父は仕事柄、アメリカ文化に触れる機会が多かったこと、新し物好きな性格と米軍基地に出入りしていた影響で、路向うのアメリカの便利なモノをどこからか調達してきたりもしていました。わが家には、当時にしては比較的早い段階から「三種の神器」のほか、家庭電話と自家用車がありました。そのお蔭で、近所から電話(当時の電話は壁掛けの黒電話で受話器を取ると交換手が出て相手の番号をいうと繋いでくれました)を借りにくる人や、テレビを見にくる人がいて、意外と賑やかでした。その際に差し入れてくれるお菓子屋や果物が子どもたちには堪らなく嬉しかったものです。



続く……

【プロフィール】
鈴木 聡 (すずき さとし)
アソビニスト、フリーライター
1957年生れ、相模原市在住。
幼少期より相模原で育つ・・・日本大学芸術学部映画学科中退。
映画・音楽・クルマ・アウトドアが大好きであり、学生時代より映画・番組製作会社・TV局のアシスタントとして現場を経験するも就職出来ず、音楽出版社を経て自動車メーカーに就職する。マーケティング、特装車、コンサル技術営業、モーターショウ、各種プロジェクトと長年自動車業界で仕事するが2017年定年退職。サラリーマンをする傍ら、大好きなアウトドア、クルマの世界に興じ各種の「遊び」をテーマにしたイベントを企画する。アウトドア・アナリスト&アドバイザー、イベントコーディネーター、コラムニスト。
遊びの様に仕事をし、仕事の様に遊ぶ・・・。
座右の銘:「貧乏暇なし生涯短し人生沢山笑うが勝ち・・!!」
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