旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。
日本は50年代の朝鮮戦争がもたらした「神武景気」で起爆スイッチが入り、64年の東京オリンピックを境に「オリンピック景気」で爆発、その後70年迄の57ヶ月間の長きに渡り「いざなぎ景気」と云われた高度成長期を迎え、インフレの高波に乗って経済が急速に発展していきました。未舗装だった砂利道は舗装され、鉄道の駅舎も木造から鉄筋に変わり、役所や学校、病院も鉄筋に生まれ変わり、公団住宅が建ち並び、信号機の有る交差点が増え、ただの空き地だった公園にはブランコや鉄棒、ジャングルジムやシーソーなどの遊具の他、ベンチなども設置されて公園らしくなりました。街のインフラの近代化が急速に進むにつれて、それまでは何処となく戦前の残り香があちこちに漂っていた街並みも一気にリニューアルされていきました。
一方、「路向うのアメリカ」は朝鮮戦争(1950~53年)を経て、1964年キントン湾事件を皮切りにベトナム戦争に突入することになり、75年のサイゴン陥落でアメリカの実質的な敗戦となるまで、約10年間の長きにわたる戦時体制下に入っていく。それに伴い、在日米軍基地はベトナム戦争、戦闘最前線の後方部隊としての位置づけが強くなっていきました。
開戦当初、ベトナム戦争は誰もがこんな長期戦になるとは思っていませんでした。そんな中、ソビエト連邦を後ろ盾とする北ベトナムは持久力を維持しました。沖縄の米軍基地が主力となり、嘉手納空軍基地から飛び立つB52戦略爆撃機による「北爆」と呼ばれた北ベトナムの大規模な空爆作戦、そして海兵隊と陸軍による地上戦が展開されます。
地元の米軍基地では何が行われていたかというと、当時、YED(横浜技術廠相模工廠)と呼ばれた「相模総合補給廠」にはファーイースト陸軍事前集積貯蔵(APS)の要として、極東アジア第17地域支援軍団(現第35戦闘維持支援大隊)が駐留し、日本に展開する陸・海・空軍の物資調達の補給基地と兵器の修理工場としてのバックヤード・サプライを担っていました。
YEDは、米軍撤収前は「相模陸軍造兵廠」であり、九七式中戦車をはじめ四式中戦車や高射砲、大型のオイ車と呼ばれた高性能の国産自走砲の開発などもしていました (三菱重工の相模原製作所などがあるのも、戦前の戦車の歴史等からです) 。
戦車・装甲車・自走砲・ロケット弾・ミサイルなどの物資はおもに、アメリカ本土から米軍貨物船で横浜ノース・ドックに陸揚げし、夜間(日中は反戦デモなどを避けるため)、旧国鉄横浜線の架線を利用して貨車で搬入されていました。一部の貨車に載らない重戦車などは、MP(ミリタリーポリス)のジープに先導された大型トレーラーで16号線を搬送していました (子どものころ、自転車で16号線を走っていると、迷彩色のシートが掛けられた戦車を運んでいるのをよく見かけました) 。
当時、国鉄横浜線に乗っていると、矢部駅と相模原駅間のフェンス越しに補給廠の広大な敷地に夥しい数の戦車や高射砲、ヘリコプター、ジープやトラックなどの軍用車両がビッシリ大量に並んでいるのが見えました。
話が脱線しますが、横浜線の橋本-町田間が一直線なのは、大正時代に広軌レールでの列車の試験走行をした名残りです。ちなみに、鉄道の軌道には大きく分けて狭軌と広軌があります。明治時代にイギリスから鉄道が導入されたとき、広軌道を日本に与えると軍事物資を大量に輸送できてしまうため、日本の兵站能力を抑制する意味で狭軌道を導入した経緯があります。その後、満州鉄道を展開するにあたり陸軍の要請で広軌道での走行実験をすることになったといいます。
ベトナム戦争前半のころには、沖縄の米軍施設が中心になり物資補給をしていたようですが、戦闘が大規模になるに連れて物量が増えたのか、ベトナム戦争中盤あたりからは相模総合補給廠もただの保管基地としてだけではなく、戦闘で破損した戦車や自走砲、装甲車、その他の軍用車の修理も主業務になっていたようです。
いったん補給廠に保管された軍用車両やヘリコプターは、横田基地からハーキュリーズ輸送機に載せられてベトナム戦争最前線へ直送もしていたようです。
修理のボリュームの増大に伴い、デポ拡充のため、国道16号線を西へ2キロメートルほどの「キャンプ淵野辺」(アメリカ国家安全保障局太平洋代表部在日事務所があった基地)にも軍用車の修理デポを造り、2カ所で一年中24時間フル稼働してたようです。
相模総合補給廠からキャンプ淵野辺のデポ間の移動は専用トレーラーに載せていましたが、ボリューム的にキャパシティ・オーバーのときは真夜中にキャタピラのまま戦車を自走させて国道を横切ったりしていたとの話をよく耳にしました。
戦車の自走といえば、相模総合補給廠北東側の「小山丘陵」にから現南大沢あたりにかけて、第二次世界大戦終戦間際にできた旧陸軍の戦車試験コース(通称、戦車道路)で、戦後、補給廠のデポで修理を終えた戦車の走行テストをしていました。矢部にあった防衛庁技術研究所でも戦車の走行テストなどをやっていましたが、多摩丘陵の開発により「戦車道路」は現在遊歩道や公園になっています。
続く・・・・