日本陸軍施設の移転から始まった相模原の都市形成をたどる企画展が現在、相模原市立公文書館(相模原市緑区久保沢1、TEL 042-783-8053)で開かれている。
「軍都計画」展は、昨年に続き2回目。日本陸軍施設の移転と軍事都市計画を紹介した1回目に続き、今回は終戦後の「キャンプ淵野辺の返還と土地利用」に焦点をあてる。
人口わずか3万人の原野だった相模原台地に1937(昭和12年)、陸軍士官学校が市ヶ谷から移転。その後、5年間で陸軍病院や兵器工場など計8施設が建設された。軍事関連施設の集積に伴う人口増加を見込んだ土地区画整理事業と町村合併により1941(昭和16)年、「相模原町」が誕生した。
現在の市役所周辺の整然とした区画や公園、国道16号の40メートル道路、ラウンドアバウトの面影を残す交差点は当時の区画整理事業で整備された。終戦後、米軍に接収された施設のうち、キャンプ淵野辺、医療センター(相模大野中央公園周辺)、座間小射撃場(麻溝公園周辺)、相模原総合補給廠の一部(相模原駅南口周辺)が返還されている。
キャンプ淵野辺は、米軍施設の電波障害に反対する市民運動から、早期返還を求める運動に発展。修理済み戦車のベトナム輸送を阻止する「戦車闘争」を経て、1974年、国に返還された。跡地には現在、弥栄小学校や市立淵野辺公園、県立相模原球場、銀河アリーナ、JAXA相模原キャンパス、国民生活センター、国立映画アーカイブ相模原分館、市立博物館などが立地している。
同展では、早期返還を求める市民運動、跡地の無償での地元利用を求めた河津市長と二階堂官房長官との会談の記録、土地利用計画の変遷などを公文書55点で紹介。「当たり前のように住んでいる街がどうやってできたのか、知っている人は少ないのでは」と同館の菊地原恒市さん。
「相模原台地は士官学校の移転候補地の1つだった。『別の場所に移転していたら相模原がどうなっていたか』、『なぜ米軍は陸軍施設を空襲しなかったのか』など思いをめぐらせることもできる」とも。
開催時間は8時45分~17時。月曜、8月13日・21日休館。入場無料。