町田在住のライター&編集者の多田洋一さんが、「町田のちょっと懐かしい」を訪れ、今はなき店や出来事に思いをはせる、ゆるノスタルジー系連載。
こんにちは、多田洋一です。本に関わる仕事をしていて、町田市在住。ええと、1980年にバンド編成になってブレイクしたRCサクセション。同年6月にはライブ盤「RHAPSODY」、続いて12月にはスタジオ盤「PLEASE」をリリース。このアルバム、音がお行儀良すぎて次作「BLUE」の荒削りな風合いのほうが好みなんですが、でも思い出深い曲が多いです。アナログで買ったのは大学生のときで、その後勤め人になっても残業時とか、ときどきラジカセで「いい事ばかりはありゃしない」を聞いてたな。「金が欲しくて働いて 眠るだけ♪」...心ある上司だったN次長もそのフレーズを一緒に歌ってくれたりして、楽しい職場でした。あと「トランジスタ・ラジオ」も名曲なんだけど、でも歌詞の「たばこのけむり」「内ポケットにいつもトランジスタ・ラジオ」「ベイエリア」「リバプール」「ホットなナンバー」...このあたりの微妙なニュアンスって、たとえばいまの15歳には伝わらないかもしれないなぁ。
不要不急の外出は自粛、という穏やかならぬ2020年の春。町田市の桜の名所のひとつ、尾根緑道の様子を見てきました(撮影後は食料品を買って早々と帰宅)。例年のようにソメイヨシノなどはもう咲いていたけれど、でも人影はまばらで、そのことが寂しいような、でもほっとするような複雑な心境。でっ、この道...私の記憶では、親が花見にいくようになったのは、1980年代の終わりごろのような。調べてみると、いまの桜街道みたいになっている箇所(約1.5キロ)は行政の昭和59年度事業(1984年)で緑道化されたようですね。ああ、私がN次長と「金が欲しくて~」と歌っていたころ。町田の自宅には寝るために帰るだけの生活でしたがな。その後、いつのころだったからは定かでないが、両親が毎春「戦車道路にいくぞ」と物騒なことを言うようになり...なので、個人的にはいまだに「尾根緑道」という平和な名称がピンとこなかったりしてます。なんで両親がともに「戦車道路」という呼びかたをしてたのか。元来は大日本帝国陸軍の相模陸軍造兵廠でつくった戦車の試行道路で、戦後も防衛省の管理下で装甲車などの走行試験に使われていた、なんてことを知っていたとは思えないんですよね。妹が桜美林高校~短大だったんで、たぶん周囲の人が「戦車道路」って言ってるから、それをそのまま口伝えで受け入れていたんだろうと。
その桜美林学園も、例年どおり桜が咲き誇っていました。おうびりん...妹が入学したころ、地元の年配者はほぼ「オベリン」(〝ベ〟にアクセント)と呼んでいた記憶が。創立者である清水安三氏による命名で、フランスの思想家Johann Friedrich Oberlinや氏のアメリカでの留学先(Oberlin College)にちなんだ名称なのですね。「おうびりん」という発音が町田でもメジャーになったのは、やっぱり高校野球。夏の甲子園第58回大会(1976年)での優勝だと思うな。ダークホースだったのに試合ごとに強くなって、星陵にもPL学園にも勝ってまさかの優勝! 夏休みが終わって町田バスセンターあたりをうろうろしていたら、大活躍した片岡主将や渋谷捕手を見かけて、全国区のスターなのに「普通の高校生のオニイチャン」っぽくわいわいやってておもしろかった。
うちから桜名所の尾根緑道へいくには、前回書いた《満腹、もとい町田街道》をさらに進んで、シュールな金と赤でまばゆいラーメン屋のある常盤交差点で右折するのですが、10年くらいまえまで、もう少し桜美林方面に戻った右側に素敵なイタリアンの店があったような気がして...おいしかったんだけど名前を忘れてしまいました。どこかに移転してたりしないのかな。そしてこの界隈でずっと気になりながらいったことないのが、常盤つり堀センター。釣り堀は、北里大学から相模線のほうへ下っていったところにあった神奈川フィッシングパークにいったのが最後かもしれなくて...今回の騒動が一段落して平穏な日々が戻ってきたら、ぜひのんびりしにいってみたいです。