特集

路向うのアメリカ
#8 路向こうの平和

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旧日本陸軍による軍都建設で誕生した相模原。
第二次大戦後、軍事関連施設は米軍基地として利用され、戦争特需をもたらす一方、市民生活やまちづくりに大きな影響を及ぼした。
戦後の復興期に米軍基地のそばで育った著者が見つめていた「路向うのアメリカ」。その記憶を一家のアルバム写真とともにたどる連載コラム。

#8 路向こうの平和

今回は、何故に在日米軍基地が存在することになったのか、その経緯と歴史的背景に少し触れてみたいと思います。

相模原には太平洋戦争後、在日米軍基地が点在していました。多くは他の米軍基地同様、旧帝国軍の基地跡に連合国軍が駐在したことに始まります。

戦後の世界は、領土問題、東西の微妙なパワーバランスから東西冷戦の構造が生まれました。極東アジア圏においても米国、ソ連、中国の対峙から、朝鮮半島は38度線を境に南北に分断され、東西冷戦の代理戦争ともいわれる「朝鮮戦争」が勃発することになります。

約3年に及ぶ朝鮮戦争により、沖縄(当時は米国の一部)をはじめ、立川・横須賀・相模原などの国内の米軍基地は、韓国軍の後方支援基地として活躍。戦争の爪痕が色濃く残る敗戦国日本にとって、米軍の兵站(軍事関連物資調達)協力によるところの経済的効果は計り知れず、戦後復興に向けて立ち直る機会となりました。

日本政府に1958年、主権が戻り、連合国進駐軍が撤退した後もさらなるアジアのパワーバランス維持のため、在日米軍基地を保持したい米国はサンフランシスコ講和条約後、「日米安全保障条約」を更新し、新たな在日米軍基地を構築することになりました。在日米軍基地がさらに確固たる地位を築くことになったのは、ベトナム戦争時における後方支援基地としての絶大な役割と実質的な参戦状態ともいえるぐらいのベトナム戦争での功績でした。

ベトナム戦争で当時、日本にない物を何でも持っていた超大国アメリカは徐々に力を失うことになるわけですが、「米国に追いつけ追い越せ!!」の合言葉の下、「エコノミックアニマル」と世界から評された日本は対照的でした。

1970年夏、日本列島は「大阪万博」に熱狂していました。その一方、相模大野にあった「路向うのアメリカ」、米軍相模原医療センターのフェンス越しに、ベトナム戦争で負傷し、頭や手足を包帯でミイラの如くグルグル巻きにされ、松葉杖を突き芝生の中庭を足をひきづり歩く姿、ベンチで日向ぼっこをする傷病兵の姿が今でも鮮明に思い出されます。

今から思うと当時、20歳前後の若い青年が徴兵され、はるか南の遠いベトナムの戦場で来る日も来る日もベトコンの脅威にさらされながら戦闘を繰り返した挙句、重症を負って命からがら日本に帰還。体にも心にも深く傷を負った兵士は青空の下、相模原医療センターの芝生を見詰めながら、一体何を考え、何を思っていたのでしょうか。 太平洋戦争に敗れ、敗戦国となったニッポン、戦後は一貫して米国の傀儡となった日本ですが、敗戦と同時に平和を手に入れました。

当時、敗戦国側から垣間見た豊かな勝戦国「アメリカ」。自家用車やエアコンにステレオ、なんでも持っている物資豊かな超大国アメリカですが、彼らには日本が既に持っていた「平和」というたった二文字の世界だけは持っていませんでした。彼らにとって「平和」とははるか彼方、いまだに手が届かないユートピアなのかも知れません。

続く・・・・。

【プロフィール】
鈴木 聡 (すずき さとし)
アソビニスト、フリーライター
1957年生れ、相模原市在住。
幼少期より相模原で育つ・・・日本大学芸術学部映画学科中退。
映画・音楽・クルマ・アウトドアが大好きであり、学生時代より映画・番組製作会社・TV局のアシスタントとして現場を経験するも就職出来ず、音楽出版社を経て自動車メーカーに就職する。マーケティング、特装車、コンサル技術営業、モーターショウ、各種プロジェクトと長年自動車業界で仕事するが2017年定年退職。サラリーマンをする傍ら、大好きなアウトドア、クルマの世界に興じ各種の「遊び」をテーマにしたイベントを企画する。アウトドア・アナリスト&アドバイザー、イベントコーディネーター、コラムニスト。
遊びの様に仕事をし、仕事の様に遊ぶ・・・。
座右の銘:「貧乏暇なし生涯短し人生沢山笑うが勝ち・・!!」

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