相模原市や町田市などのローカル情報を発信するコミュニティFM局「FMHOT839」。番組「それいけ!さがみ月光団!」でディレクターを務める「月光団団長 蝉丸」さんがラジオの魅力を伝える連載企画。
2011年3月11日 14時46分。
その時、僕は。
国道16号の相模原警察署前の交差点を渡っていました。
エフエムさがみから相模原市役所へ。
「松尾芭蕉」の句碑の取材です。
横断歩道を渡り終えた時。
「めまい」がしました。
そうです。この時は「めまい」だと思っていました。
体調が悪いのかな。
近くに木につかまっていないと立っていられないくらい。
不思議なくらい一瞬だったような。
その時は。
でも、すぐに周りから起きた悲鳴と街路樹が軋む音が不気味に響くと
停まっていた時が動き出したかのように
僕は、今度は横断歩道を走っていました。
「エフエムさがみ」の長い一日の始まりです。
各地の被害状況を収集。
テレビから流れる東北の状況は、にわかには信じられない状況でした。
相模原、町田の各地に中継隊を派遣。
中継隊といっても、エフエムさがみの人員もなかなか集まらず、2人くらいの少人数です。
他にスタジオに残り、情報を取集し続ける人員も必要です。
相模原市消防局で情報を集めていた僕は、行幸道路周辺の中継隊に。
中継用の携帯電話を握りしめ、僕の中で「この後どうなるんだろう?」という不安と「こういう時こそラジオの活躍の場」という高揚感が交錯していました。
僕が印象深いのは、3月11日の「夜」です。
電車はすでにストップ。
主要駅周辺は激しい渋滞。
家に帰れない帰宅難民であふれる公民館。
余震。飛び交う情報。
その間にいる人々は不安と疲れで憔悴していました。
今となってはどこをどう取材したか憶えていないくらい飛び回りました。
エフエムさがみの全スタッフが3月12日の昼までスタジオを離れることなく、情報を発信し続けました。エフエムさがみの「震災シフト」は計画停電まで続く事となります。
「震災の時はラジオを聴いていたよ」
という声を今でも頂きます。
震災以降、「ラジオ」というものの存在が見直されました。
より地域に密着し、「防災ツール」「災害時に必要なもの」となったラジオ。
僕もあの日見た光景を忘れないように、「防災」「災害時」を意識して番組を作るようになりました。
あの日から、6年。
早いようで短いようで。
今もなお東北では「災害エフエム」(災害時に、臨時に開局したラジオ局や空中線電力の増力を申請したラジオ局)が活動をしています。
まだラジオの「震災」は続いていて、これからも「震災」から得た教訓はラジオの中に生き続けて行くと思います。
2017年3月11日。
エフエムさがみは相模原・町田市ライトダウン「まちだ・さがみはら絆・創・光」に協力し、相模原・町田各地とスタジオを結び、様々なゲストを迎え「あの震災を忘れない」特別番組を放送しました。まずはあの日の事を忘れないことが大切でしょう。
(ライトダウン特別番組中のFMHOT839スタジオ。スタジオもライトダウンです)
「3月11日」で、心残りな件が一つあります。
翌3月12日夕方は、何事もなければ僕は少年野球の取材が入っていました。
しかし、3月12日の朝に少年野球の監督から
「地震で小学校のグラウンドに液状化の恐れがあり、活動がしばらく中止になります」ということで、取材が中止になりました。
子どもたちは取材を楽しみにしていたのに、残念です。
その子供たちももう、高校生くらいになっているのですね。
さて、私の今年の「3月11日」ですが。
不思議な事に、あの日から6年後なんですが
少年野球の大会を取材していました。
あの時取材が中止になった少年野球。
たくさんの野球少少女の笑顔とともに過ごした「3月11日」でした。
(少年野球大会での黙とう)